2016年12月31日土曜日

差延化戦略には5つの方法があった!

「差延化」という言葉を、21年前に筆者が始めて使ったのは、供給者サイドからのマーケティング戦略の中核であった「差別化」や「差異化」を超える商品開発戦略を、新たに提案するためでした。

その内容は【
〝差延化〟を初めて提唱した論文の要旨です!】(2015年8月1日)で述べていますが、具体的な方法として、次の5つを上げています。

①「私仕様」対応・・・ユーザー独自の注文に応えるもので、オーダースーツ、オーダー家具、オーダー結婚式パーティーなど。


②「参加」対応・・・ユーザーに7~8割程度の素材を提供するもので、雑誌の読者記者制度、組み替えスーツ、キット家具製作クラブ、自由設計プレハブ住宅、ログハウスなど。 

③「編集」対応・・・ユーザーの“自主編集権”を満足させるもので、各社の衣料を組み合わせて独自スタイルをつくり出す消費者編集ファッション、各社の部品を編集して独自の車をつくり出す改造車や改造バイクなど。

④「変換」対応・・・ユーザーが商品の用途を自由に変えられる要素を提供するもので、ポケットベルの用途の多様化、冷蔵庫の総合保管庫化など。

⑤「手作り」対応・・・ユーザーに2~3割程度の素材を提供するもので、手作りビール、デコラティブ(装飾的)ペインティング、デコパージュ風ニュー手芸、個人手配海外旅行など。

5つの戦略は、①から⑤へと進むほど、ユーザーの差延化願望に対応するレベルが上がっていきます

つまり、サプライヤー側からの差延化戦略では、私仕様・参加・編集・変換・手作りの順で、ユーザーの差延化願望に接近しているといえるのです。

2016年12月19日月曜日

生活民にとって「差延化」とは・・・

前回述べた、生活民の「価値」への態度のうち、③の【「個効」を活用して、自己生活の倫理に合うような、適切な「私効」に転換できるか否か、を考えなければいけない】という項目は、まさに「差延化」という方法そのものです。

「差延化」という言葉は、【
21年前、差延化戦略を提案しました!】(2015年7月31日)で述べたように、ポスト構造主義の主導者、J.デリダの哲学用語「差延」をマーケティング戦略に応用した、筆者の造語ですが、関係学会や業界などでは、ほぼ定着しているようです。

しかし、この時には供給者サイドからのマーケティング戦略の一つとして提案したものであって、生活民というユーザー側への提案ではなかった、と反省しています。

そこで、生活民のサイドに立って、「個効」を「私効」に変換する場合の「差延化」について、改めて触れておきましょう。

すでに【
生活民は「価値」よりも「私効」を重視!】(2016年11月22日)で述べた通り、言語学の知見に基づくと、生活民にとっての「価値」=ネウチには3つの形があります。
 
  • 価値=共効(Social Utility)・・・社会界において、ラング=社会集団が共同主観として認めた「共同的有用性」。
  • 個効(Individual Utility)・・・間人界において、生活民がパロール1=個人使用を行う時に、一人の個人として、社会的効用を受け入れた「個人的有用性」。
  • 私効(Personal Utility)・・・私人界において、生活民がパロール2=私的使用を行う時、一人の私人が独自に創り出した「私的有用性」。
 
私たちが日本語という言葉を使う時、通常は日本社会で通用している単語と文法に従って会話や文通をしています。しかし、実際の生活では、辞書や文法書から外れた用法で、言葉を使うケースもかなりあります。それらに準拠しながらも、自らの創意を加えて、たな用法を編み出こともあります。
 
例えば「ライオン」は猛獣の獅子を表す言葉(ラング)ですが、最近の若者言葉では「朝から晩までメールを送ってくる人」(パロール1)を指すそうです。誰かが(株)ライオンのコピー「おはようからおやすみまで暮らしを見つめる」をもじって使い始めたこと(パロール2)が、一般化したものです。
 
モノに置き換えれば、電気冷蔵庫のネウチは食品や飲料を冷却保存すること(共効)であり、多くの消費者はそれを購入して、さまざまな食品を保存しています(個効)。ところが、独創的な生活民の中には、薬品や化粧水、あるいは銀行通帳や現金などを保存すること(私効)もあります。それが広がって、緊急時のための「命のバトン」のように、「私効」が「個効」となって、ついには「共効」となる事例も現れています。
以上のうち、パロール2や私効化という行為が、生活民の「差延化」にあたります。
 
この差延化には、私仕様、参加、手作り、編集、変換などの方法がありますが、生活民はどのように使いこなしていけばよいのでしょうか。

2016年12月7日水曜日

生活民は「価値」に惑わされない!

供給側からの「サプライヤ―・サイド・マーケティング(Supplier- side Marketing)」が、「価値」創造の商品開発に執着しているとすれば、需要側の「ユーザー・サイド・マーケティング(User-side Marketing)」では、どのように「価値」というネウチと付き合っていけばいいのでしょうか。

もともと「生活民」の前身となった「生活人」や「生活者」では、「価値」というネウチに対して、ともに厳しい態度をとってきました。

今和次郎の提唱した「生活人」とは、「外回りの倫理でかっこうだけをつけさせようとあせることなく、日常生活を通じての自己生活の倫理」を高めていく人格、と述べられています。この定義に従うと価値」というネウチは、まさに市場社会が創り出した「外回りの倫理」ですから、それよりも「私効」という「自己生活の倫理」を重視しなればならない、ということになります。

また
大熊信行の提起した「生活者」とは、「(大衆消費社会の)営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々、と定義されています。これに従えば、「価値」を売りこむ営利主義的戦略や「価値」を受け入れる消費者という立場を極力退けるべきだ、という方向が見えてきます。

とすれば、生活人や生活者を継承する生活民は、改めて言うまでもなく価値」に対して厳しい態度をとらなければなりません。それはどのようなものか、おおまかに整理してみると、次の3つになります。
①新規性やブランド性など、供給側の差し出す「価値」を、そのまま無自覚に受け入れてはいけない

②「価値」が個別のユーザーに差し出す「
個効」が、自らの生活に本当に活かせるか否か冷静に判別しなければいけない。

③「個効」を活用して、自己生活の倫理に合うような、適切な「
私効」に転換できるか否か、を考えなければいけない。

一人一人の生活民が、供給側からの執拗なマーケティングに惑わされることなく、消費市場への自らの対応力(User-side Marketing)を高めていくためには、この3つの努力が求められているのです

2016年11月29日火曜日

新たな「価値」を創るには・・・

「価値創造こそマーケティングの王道」という言説が、あちこちで喧伝されています。

ここでいうマーケティングとは、あくまでも供給者の立場からの「サプライヤ―・サイド・マーケティングSupplier- side Marketing)」ですから、それなりに意味のあることでしょう。

しかし、このブログで再三述べてきたように、マーケット(市場)へのアプローチは、供給者からだけ行われるものではなく、需要者あるいは生活民のサイドからも行われています(User-side Marketing)。市場社会に生きる生活民は、好き嫌いにかかわらず、消費市場と付き合っていかなければならないからです。

とすれば、マーケティングという概念もまた、供給側だけでなく、供給側+需要側の両面を含めることによって、初めてより統合的・全体的な視野を獲得できることになります。

従来、ほとんど無視されてきた生活民側からのアプローチを理解することで、供給サイドからのマーケティングも、いっそうレベルを上げていくことが可能になるのです。

以上の視点に立つと、「価値」の創造もまた、供給者側からの一方的なネウチ作りにすぎません

市場社会における「価値」とは、先に述べたように「社会界において、ラング=社会集団が共同主観として認めた共同的有用性」であり、「共効(Social Utility)」という、一つのネウチにすぎません。

一方、真の生活民が求めているのは、「私人界において、パロール2=私的使用を行う時、一人の私人が独自に創り出した私的有用性」、つまり「私効(Personal Utility)というネウチです。

そうである以上、どれほど「価値」のある商品を創造したとしても、生活民の「私効」として認められなければ、ほとんど意味がありません

供給者が創造したという「価値」を、一方的に押し付ければ押し付けるほど、需要者としての生活民はそっぽを向いて、時にはそれを無視することになります。

本当に「新たな価値」を創造したいのであれば、一人ひとりの生活民が求めている個々の「私効」に対して、的確に対応できるモノを提供していくことが必要です。

それには、可能な限り「押しつけ」を排して、「インタラクティヴィティ(interactivity=相互交換性)」や「カスタマイゼーション(customization=利用者参加性)などのネウチを備えた「個効(Individual Utility)を提案していかなければなりません。

つまり、「(社会と個人の間の)間人界において、生活民がパロール1=個人使用を行う時に、一人の個人として、社会的効用を受け入れた個人的有用性」を、新たに創り出すことが求められているのです。

こうした視点を無視した、安易な「新価値創造」を行えば、生活民からほとんど無視されることになり、新たな市場を作ることなど到底無理となるでしょう。

2016年11月22日火曜日

生活民は「価値」よりも「私効」を重視!

生活民の暮らしとは「自己生産や自給行動と他者生産や受給行動との接点で行動する」ものだ、と述べてきました。

この場合、供給側の創り出す「価値」と生活民の重視する「私効」の関係はどうなっているのでしょうか。

生活空間におけるネウチ(有用性)の構造については、すでに次のタイトルで述べています。

価値と効用・・・言語学で説明する!】(2015年10月5日)
効用の3つの形・・・マーケティング戦略も3つに分かれる!】(2015年10月20日)

これらを生活民の視点で改めて整理してみると、次のように要約できます。

価値=共効(Social Utility)・・・社会界において、ラング=社会集団が共同主観として認めた「共同的有用性」。
個効(Individual Utility)・・・間人界において、生活民がパロール1=個人使用を行う時に、一人の個人として、社会的効用を受け入れた「個人的有用性」。
私効(Personal Utility)・・・私人界において、生活民がパロール2=私的使用を行う時、一人の私人が独自に創り出した「私的有用性」。


つまり、生活民の生活行動に当てはめれば、「私効と個効と共効の接点で行なわれる」という意味になります。

いいかえれば、生活民はそれぞれの生活の中で、自分で創り出した「私効」を中心としつつも、外部から調達してきた「共効」を「個効」として受け入れ、新たな「私効」へと変換することにで、有用性の範囲を広げている、ということになるでしょう。

このように考えると、供給側(現代市場社会では企業が中心)の差し出す、新たな「共効=価値」とは、あくまでも生活民がそれぞれの私効を構築していくための素材ということになります。

従来の供給サイド・マーケティングでは、「新たな価値創造」とか「新たな付加価値」という行動が最重要課題のように喧伝されてきました。

だが、それはあくまでも供給側に限った視点であり、需給両面、つまり生活民を含めた、よりトータルなマーケティングから見れば、片手落ち、あるいは一方的な方法論にすぎません。

真の「価値」創造とは、生活民の1人1人が新たな「私効」を充実できるような、新たなネウチ(有用性)の素材を提供することにあるのです。

2016年11月12日土曜日

自給と他給の接点で考える!

3つの軸で交差された「生活構造」のうえで、生活民はどのように行動しているのでしょうか。

これまで述べてきたように、生活民とは、市場社会のユーザー(消費者)の立場を超えて、市場社会の成立以前から存在した、自立的な人間像を基本にしています。

それゆえ、生活民の生活行動とは、原始社会の自給自足や自産自消(自給経済システム)をベースにしつつ、共同体社会での地産地消や域内贈収(贈与経済システム)へ、さらに市場社会での他産他消や市場需給(市場経済システム)にまで広がっています。

このことは、経済システムが進歩するにつれて、生活行動が変化してきた、ということではありません。

経済システムの変化に応じて、自給自足的な行動が様々に変化しつつ、柔軟に適合してきたことを意味しています。

いいかえれば、市場社会がいかに進歩したとても、生活民の自給自足や自産自消が簡単に消え去ることはありえません。

現に私たちは、野菜を栽培したり魚を釣ることこそ行なっていませんが、スーパーマーケットでそれらを購入(他給)してきて、煮たり焼いたり揚げたりして、自ら調理するという自給行動は依然として続けています。

それゆえ、現代社会における生活民の生活行動とは、「それぞれの生活を営んでいくうえで、自給行動を基礎にしつつ、外側に広がる共同体や消費市場をいかに利用するべきか」ということになります。

いいかえれば、「自己生産や自給行動と他者生産や受給行動との接点で行動する」ということになるでしょう。

2016年10月29日土曜日

生活構造の中核とは・・・

生活民の生活構造の中核は、縦・横・前後の3軸が交わる中心部において、毎日営まれている「日常・平常」な生活です。

生活構造の中核というと、「表層から内層へ」「外界から内界へ」と、求心的に絞り込まれた中心部と考えがちですが、私たちの日常生活は必ずしもそのような形で営まれているのではありません。

体感や感性の世界と記号や言語の世界を柔軟に行き交い、私的で個人的な世界と集団や社会的な世界を自由に飛び交い、さらには儀礼と虚構の間でリアルを体験しています。

つまり、生活構造とは求心=内向的なものというより、開放=外向的なものというべきでしょう

それゆえ、【「生活体」の3つの軸(2015年2月24日)】で述べたように、生活構造とは、感覚・言語軸、個人・社会軸、真摯・虚構軸という、3つの軸の交差体であり、その中核とは3軸の交点だ、と考えるべきです。

となると、社会経済学の「生活者」の条件である「自己生産を基本にする」ことや、それを継承して、【
USマーケティング宣言(2016年8月18日)】に取り入れた「⑨生活民がそれぞれの生活を営んでいくうえで、自給行動を基礎にしつつ、外側に広がる市場をいかに利用するべきか、を考えます」という項目もまた、「自己生産や自給行動を中心におく」ことを意味するのではなく、「他者生産や受給行動との接点で考える」ことを示しています。

生活民の生活構造とは、3軸の交差点を中心にしつつ、広大な空間の中へどこまでも伸びていく、開放的なもといえるでしょう。

2016年10月25日火曜日

「生活民」の生活構造とは・・・

生活民」は、生活学の「生活人」や社会経済学の「生活者」を継承しつつ、両者が排除した「伝統や慣習、あるいは流行を追い求める生活行動」や、「気晴らしや見せびらかしなどを求める願望次元」なども吸収した、より柔軟な人間像です。

こうした人間像のより詳細なイメージについては、すでに以下のタイトルなどで具体的に述べてきました。

「生活体」を提唱する!(2015年2月23日)
「生活体」の3つの軸(2015年2月24日)
生活構造の縦と横(2015年2月25日)
縦軸の構造・・・「身分け」と「言分け」(2015年2月26日)
縦軸が生み出す3つの生活願望・・・欲動・欲求・欲望(2015年3月4日)
横軸の構造・・・ラングとパロール(2015年3月6日)
横軸が作る3つの生活願望・・・世欲・実欲・私欲(2015年3月9日)
前後軸が作るメタメッセージの世界(2015年3月12日)
前後軸が作る3つの生活願望・・・真欲・常欲・虚欲(2015年3月13日)
これが生活体だ!(2015年3月19日)

このような「生活体」は、まさしく「生活民」の生活構造を表しています。



ポイントは以下の5点です。


① 生活民の生活構造は3つの軸から構成されています。

② 縦軸では「観念・理想」とともに「伝統・慣習」が含まれています。

③ 横軸では「自給自足・自己満足」とともに「流行・見せびらかし」を含まれています。

④ 前後軸では「学習・訓練」とともに「気晴らし・遊戯・弛緩」を含まれています。

⑤ 3つの軸が交わる中心として、「日常・平常」な生活が位置づけられています。

以上のように、「生活民」とは、日常・平常な行動を中心としつつ、感覚や伝統、観念や理想、自足や自己愛、流行や権威、学習や訓練、遊戯や弛緩などをも包含する、幅広く柔軟な人間像だといえるでしょう。

2016年10月13日木曜日

「生活民」とはどんな人?

生活民」とは、生活の主体である人間像を、生活学の「生活人」や社会経済学の「生活者」を継承しつつ、より統合化したコンセプトです。

具体的にいえば、次のような特徴があります。



①「生活人」からは、「美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像」を継承しています。

②「生活者」からは、「営利主義の対象である“消費者”を抑制する」ことや「自己生産を基本にする」ことを継承しています。

③その一方で、「生活人」が否定した「伝統や慣習、あるいは流行を追い求める生活行動」や、「生活者」が排除した「気晴らしや見せびらかしなどを求める願望次元」なども積極的に肯定し、両方とも含めた人間像をめざします。

④生活の主体を、市場社会のユーザーの立場を超えて、市場の成立以前から存在した、自立的な人間におきます。

⑤こうした視点から、庶民、市民、人民、公民、国民などに共通する「民」の視点を再評価し、「生活民」と名付けます。

以上のように、このブログでは今後、「生活民」という言葉を使いますが、それはこれまで述べてきた「生活体」や「生活球」の視点を否定するものではなく、それぞれを統合化した人間像ともいえるでしょう。

2016年9月30日金曜日

「生活民」という主体が動く!

USマーケティングを行う主体は、企業や店舗などの供給者ではなく、自らの暮らしを構築していこうとする庶民や市民などの需要者です。

こうしたユーザーの人間像については、これまでにも「生活人」「生活者」「プロシューマー」など、幾つかのコンセプトが提案されています。



このブログでも、すでに紹介してきましたが、要点は次の通りです。


◆生活人:今和次郎は「生活人」を提唱!(2015年2月20日)・・・今は「生活学への空想」(1951年)や「『生活人』の意識」(1952年)の中で、日常生活の主体となる「生活人」とは、労働から娯楽や教養までを包括する、より全体的な人間像である、と指摘しています。

◆生活者:
大熊信行の提起した「生活者」とは(2015年2月19日)・・・大熊は「消費者から生活者へ」(1963年)の中で「“消費者”という一つの言葉は経済学に返納して、日常生活では私たちは生活者である、という新しい自覚に立ちたい」と宣言し、さらに『生命再生産の理論』(1974年)では、「生活者」とは、生活の基本が「自己生産であることを自覚し」て、「時間と金銭における必要と自由を設定し、つねに識別し、あくまで必要を守りながら」、大衆消費社会の「営利主義的戦略の対象としての、消費者であることをみずから最低限にとどめよう」とする人々だ、と述べています。

◆生産消費者(プロシューマー):アルビン・トフラーは『第三の波』(1980年)の中で、生産者 (producer) と消費者 (consumer) とを組み合わせた造語として「生産消費者(prosumer)」を提起し、市場を通じた交換に依る経済活動だけでなく、市場を通さずに、自分自身や家族や地域社会で使用するため、あるいは自己の満足を得るために、無償の隠れた経済活動で多くの富を生み出す人だと述べています。

これらのコンセプトについては一長一短があります。

◆「生活人」については、美学や哲学などの次元にまで幅を広げた、より総合的な人間像を意味していますが、農村に残る冠婚葬祭のような慣習や都市生活が取り入れる流行など退け、「いきいきした生活というものは、社会的な力である慣習と流行へのたゆまざる戦いから生まれる」と述べています。この定義によると、伝統や慣習、あるいはファッションやトレンドを追い求める生活行動を排除することになり、そこに限界があります。

◆「生活者」についても、消費者という経済学的範疇を大きく超えながらも、なお「必要」次元という、社会科学的次元に留まっています。だが、私たち一人一人の需要者は、「必要・不必要」という次元を超えて、例えば気晴らしや見せびらかしのためにも、モノやサービスを求めるものであり、それを否定しては、人間の生活行動をトータルに把握することはできません。

◆「生産消費者(プロシューマー)については、市場社会が成立する以前に、自給自足社会があったという、歴史的な事実を忘れた発想であり、新しいコンセプトというには限界があります。

以上のように、既存のユーザー像については、幾つかの問題点を指摘できます。

とりわけ、「生活者」という言葉については、上記のような問題点を孕んでいるにも関わらず、経済学者からマーケティング業界に至るまでが消費者」に代わる代用語のように使用されており、ユーザーサイドからの市場接近行動という、新たな目標へ向かうには限界があります。

そこで、このブログでは「生活体」という言葉を使ってきましたが、ここにきて「USマーケティング」という、新たな次元に達しましたので、今後は総合的なユーザー像については「生活民」という言葉を用いたいと思います。

生活民とはいかなるものなのか、次回から考えていきます。
 

2016年9月19日月曜日

リバース・マーケティングとはどこが違うのか?

USマーケティングによく似たコンセプトに、リバース・マーケティング(Reverse Marketing)やコントラ・マーケティング(Contra Marketing)があります。


リバース・マーケティング(Reverse Marketing)というコンセプトを、1988年に初めて提唱した、アメリカの経営学者M.R.LeendersD.L.Blenkhornは「リバース・マーケティングとは、購買者が供給対象へ達するための積極的かつ想像力豊かなアプローチ」と定義しています(“Reverse Marketing:The New Buyer-Supplier Relationship”)

7年後の1995年、オランダの経営学者W.G.BiemansM.J.Brandも「リバース・マーケティングとは、マーケティング担当者が顧客を探すのではなく、顧客が会社を探すためのマーケティング手法」と定義したうえで、従来のマーケティングが、顧客の生活願望をターゲットにした売り手側のアプローチであったのに対し、リバース・マーケティングは、「望ましい製品を提供してくれる、潜在的な売り手に向けて、顧客側が行うアプローチ」、と述べています("Reverse Marketing: Synergy of Purchasing and Relationship Marketing")。

こうした論調を受けて2002年に、マーケティング学界の重鎮、P. Kotlerもまた「デジタルエコノミーの影響により、売り手から買い手へのパワーシフトが進むにつれて、リバース・マーケティング、つまり顧客主導のマーケティングが台頭している。ウエブの世界では、顧客自らが製品を設計したり、製品構成を決めたりする機能が普及している」と述べて、「顧客が自ら主導する市場行動」を「リバース・マーケティング」と名づけています。(Marketing Moves: A New Approach to Profits, Growth, and Renewal、2002)。

以上のように、欧米では30年ほど前から「リバース・マーケティング」という言葉が、「顧客側から市場へのアプローチする行動」として使用されいます。

しかし、2つの点でやや違和感があります。


① ヨーロッパでは需給両主体の逆転が強調されているが、アメリカでは消費市場を前提にしたうえで顧客側からのアプローチの強まりに力点がおかれている。

② 欧米ともに、従来のマーケティング概念を前提にした、新たなマーケティング手法の一つとして提案されている。

それゆえ、このブログではあえてこの言葉を使わず、新たに「USマーケティング」という言葉を提案しました。


後述するように、購買者や顧客といった主体論や市場調査や広報宣伝といった経営戦略論など、従来のマーケティング概念そのものを大きく超えた発想であるからです。

一方、コントラ・マーケティング(Contra Marketing)という言葉は、主にヨーロッパで使われており、「タバコ、アルコール、薬物など、有害とみなされている需要を排除することを目的とした活動」と定義されています。つまり、有害商品の販売活動に対する抵抗活動です。

この概念が拡大されて、あらゆる商品を無頓着に拡販するマーケティングという活動そのものに対する「反抗」あるいは「抵抗」を示す言葉とも解されています。その意味では「アンチ・マーケティング(Anti-Marketing)」ともいうべきものです。

こうした論調はヨーロッパで広がっていますが、否定的な生活行動に限られていますから、あまりこだわりすぎると、マーケットを積極的に活用するという視点が弱まってきます。

それゆえ、このブログの「USマーケティング」では、市場社会を前提にしつつも、供給側からだけのマーケティング概念を超えて、より広く「生活民」視点からの生活運営行動を提案していきます。

2016年9月5日月曜日

なぜUSマーケティングが必要なのか?

このブログで幾度も述べてきたように、生活学でいう「生活人」や「生活者」は「市場社会を超えた人」と理解されていますから、市場を大前提とする「市場行為」、つまり「マーケティング」とは相いれないところがあります。
 
しかし、あえて「生活学マーケティング」という、一見矛盾したブログを始めたのは、「生活者と市場社会の矛盾を超える!」(2015年2月11日)でも述べたように、私たちの暮らしが市場社会そのものの中で営まれている、という現実を無視できないからです。

現代社会に生きている人間は、それぞれの生活を構成している、ほとんどのモノやサービスを市場から受け取っており生活市場」を否定しては、もはや暮らしを構成できない状況にあります。

とはいえ、ユーザーの生活願望と生活市場が提供する商品やサービスの間には、限りなく深いギャップがあります。

単なる消費者を脱した、高意識のユーザーたちにとって、市場の差し出すモノやコトは、そのまま受容できるものではなく、さまざまな不満を抱きつつも、妥協しているにすぎないのです

他方、供給側の企業もまた、ユーザーの求めるモノやコトを、すべて的確に把握しているとは限りません。詳細なマーケティングリサーチや市場分析などを行いつつも、既存の市場概念や商品コンセプトに基づいて、新商品や新サービスを提案しているにすぎません。

それゆえ、このような需給ギャップを埋めようと、当ブログでは「生活学マーケティング」を提唱してきました。
 
一方では市場社会を利用して、ユーザー自らがそれぞれの生活願望を実現していくにはどうすればいいのか、他方では市場社会を通じて、供給者がどこまで生活者の願望の隅々に応えていけるのか、を検討するという方法論です。

しかし、こうした方法論をさまざまに考察してきた結果、もう一歩進めて、ユーザーサイドに視点をおいたマーケティングが必要と思うに至りました。

マーケティングという言葉が、供給側からのアプローチから始まったため、需要側からのアプローチについては、ほとんど未開拓の状態です。これでは、バランスのとれた「市場需給論」を構築していくことはできません。

「市場」にアプローチするのは供給側の企業だけではなく、ユーザー自身もまた積極的にアプローチしていることを再確認することが必要です。

両者の対等的なアプローチと統合的な発想によって、高度市場社会における、全体的なマーケティングの理論と方法が初めて確立できるものと確信しています。

これこそUSマーケティング」を改めて提唱する理由です。

2016年8月23日火曜日

ユーザー側から生活市場へアプローチする!

USマーケティングとは、近代市場社会の生み出した生活市場装置を、ユーザーの立場からどのように使いこなすべきか、さまざまな手段を考察する生活提案行動です。

「市場」という社会的な装置には、供給者と需要者がそれぞれのサイドからアプローチしています。

とすれば、生活市場に関わる行為を意味する「マーケティング」という言葉にも、供給側からのアプローチだけでなく、需要側からのアプローチもまた含まれているはずです。

従来のマーケティングでは、専ら供給者(supplier)側からのアプローチを考察してきましたが、それだけでは片手落ちで、もう一方で、需要者(user)側からのアプローチ研究もまた強く求められます。

つまり、マーケティングには、供給側からの「Supplier-side Marketing」と、需要側からの「User-side Marketing」の、2つの面があり、これからのマーケティングでは当然、両方からの考察が必要になります。

両者の対比や比較があって、初めて近代市場社会にふさわしい「マーケティング」制度が成立するものと思うからです。

USマーケティングでは、User-side Marketingの確立その高度化に挑んでいきます。

2016年8月18日木曜日

USマーケティング宣言

これまでこのブログで思考してきた「生活学マーケティング」の延長線上に、筆者は改めて「USマーケティング(User-side Marketing)」を提唱します。

USマーケティングとは、近代市場社会の生み出した消費市場制度を、ユーザーの立場からどのように使いこなすべきか、さまざまな手段を提案する生活運営行動です。

類似のコンセプトとして、リバース・マーケティング(Reverse Marketing)やコントラ・マーケティング(Contra Marketing)などがありますが、後述するように、USマーケティングは既存のマーケティング概念を超えて、より広い立場からユーザーサイドに沿った生活運営行動を展開していきます。

USマーケティングの詳しい内容については、このブログで順次述べていきます。

2016年8月8日月曜日

物語は供給者からの誘導、神話は需要者との融合

物語(Story)戦略神話(Mythology)戦略の違いを、幾つかの視点で比べてみましょう。

①意識と無意識の差(詳しくは当ブログ「
物語と神話・・・どこが違うのか?」参照

物語戦略:言語界という、意識的、目的的、共通コードを前提にしたコミュニケーション活動
神話戦略:感覚界において、無意識的、未目標的、共通体感的に行うコミュニケーション活動

②サインとシンボルの差(詳しくは当ブログ「
サインとシンボル・・・どこが違うのか?」参照

物語戦略:モノの上に「サイン(記号)」の体系を付加することで、モノそのものへの需要を喚起しようとする手法
神話戦略:モノに潜んでいる「シンボル(象徴)」の体系を刺激することで、モノ自体への愛着心を気づかせる手法

③差異化と差元化(詳しくは当ブログ「
差異化と差元化を比較する!」参照

物語戦略:カラー、デザイン、ネーミング、ブランドの延長線上に位置づけられる、究極的な「差異化」戦略
神話戦略:感覚刺激、無意識自覚、象徴回復などをめざす、総合的な「差元化」戦略の一つ。

このように整理してみると、物語戦略=差異化戦略の限界と、神話戦略=差元化戦略の有効性が、おおまかに展望できます。(当ブログの「
差異化を超えて差元化へ」や「『差異』より『深化』を!」参照


要するに、物語戦略は供給者からの強引な誘導を行う手法であり、神話戦略は需要者の無意識や感覚を刺激することで、需給両者の共感を作りだす手法といえます。

それゆえに、今後30年は続く、人口減少・需要縮小・濃密化市場に対応していくには、「シンボリック・ストーリー」などという両者の混同を超えて、差異化と差元化の違いを明確に認識した「生活人のためのマーケティング活動」、つまり「User Side Marketing」が求められるのです。

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2016年7月29日金曜日

物語戦略と神話戦略・・・違いを整理する

最近のマーケティング戦略論では、物語戦略と神話戦略が混同され、それぞれの功罪を無視した議論が流行しています。

しかし、物語戦略は「差異化戦略」神話戦略は「差元化戦略」として、それぞれ明確に分けて議論すべきもので、むしろ対立的に考察すべき対象ではないでしょうか。

そこで、物語と神話はどのように違うのか、辞書類を調べてみると、さまざまな見解が述べられています。

それらを整理して、対比的に並べてみると、次のようにまとめることができます。

物語(Story)とは、一人の人間が言語を駆使して結びつけた意味の流れを、他人に向かって語りかけたうえ、集団的な虚構物として認めさせる文章群で、読物、小説、散文、講談、台本などの形をとります。

神話(Mythology)とは、民族や種族などの人間集団の心の底に潜んでいる、集団無意識的な世界像を、さまざまな象徴(C.G.ユングのいう元型:archetype)に仮託させて紡ぎ出した文章群で、昔話、民話、お伽噺、伝説などの形をとります。

2つの文章群の違いを示すため、具体的な事例を下表に挙げておきます。

以上のような物語と神話は、マーケティングに応用されると、次のようになります。

◆物語は「差異化」戦略の一つ、いわゆる物語戦略となり、「曰く因縁由緒来歴」などの意味を一連の記号の流れに変えて、商品やサービスの上に乗せることで、広告効果や販売拡大をねらうことになります。

◆神話は「差元化」戦略の有力な手法の一つ、神話戦略となって、商品やサービスの上さまざまな元型を組み入れた象徴の流れを加えることで、ユーザーの感覚や無意識に訴求して、広告効果や販売拡大をねらいます。

表層的な次元でみれば、両方ともに需要拡大を狙ったマーケティング戦略ですが、もっと根本的な次元でみると、大きく異なっています

差異化戦略と差延化戦略の間には、ユーザーに何を訴えるかという点において、根本的な違いがあるからです
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2016年7月15日金曜日

物語戦略と神話戦略・・・どこがどう違うのか?

スマホのCMにおける「白戸家」と「三太郎」を、差異化戦略と差元化戦略、あるいは物語Story)戦略神話(Mythology)戦略の視点から比較してきました。

ところが、最近の経営戦略論やマーケティング戦略論などでは、シンボリック・ストーリー戦略とか顧客コミュニケーション戦略などという乱暴な命名によって、これらの区分をまったく無視した、粗雑な議論が横行しています。

これは、1980年代以降の差異化隆盛時代から2000年以降の差異化反省時代に至る、約30年間の
是々非々論をほとんど顧みない暴挙といえるでしょう。

どこが暴挙なのか、列挙してみましょう。

 

①発信側の意図的な「記号(サイン:sign)」の連結である「物語」と、発信者が受信者と共有しようとする「象徴(シンボル:symbol)」体系としての「神話」を混同している(参照)。

②生活者の「欲望(仏désir、英desire、独begierde)に訴える手段であるサインと、「欲動(仏plusion、英drive、独trieb)」を呼び起こす手段であるシンボルを混同し、生活願望の構造を無視している(参照
)。

③過剰な記号化戦略によって混乱させられた、生活者の自己決定力を、物語重視戦略はさらなる記号の連発によって、いっそう疲弊化させる恐れがある。

以上のような欠陥によって、シンボリック・ストーリー戦略は、2000年以降の差異化戦略への反省や批判を、悉く無駄にしていきます

マスメディアからデジタルメディアへ、コミュニケーションツールが急速に移行していく現在、安易なストーリー戦略や差異化戦略は、生活者の立場をますます弱めていくのではないか、と強く危惧します。

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2016年7月4日月曜日

三太郎の優位はこのまま続くのか?③:「人物相関図」は要らない!

3番めの疑問点は【三太郎人物相関図】というキャラクター関係を公開したことです。

三太郎CM では2015年12月から【三太郎人物相関図】を公開し、それ以降も次々に変化を加えています。


ここで示された各人物の関係は、よく知られた昔話とは違って、桃太郎とかぐや姫が夫婦、乙姫とかぐや姫が姉妹など、かなり意外ものです。

一見、ユニークな関係で、視聴者の多くを惹きつけると思いがちですが、実はここに三太郎CMの限界があります。

なぜなら、日本列島の居住民族が長い年月をかけて育んできた、さまざまなキャラクターの独自性や個性が勝手に作り変えられているからです

これによって、桃太郎、金太郎、浦島太郎、乙姫、かぐや姫などに、私たち一人一人が抱いていた、豊かで多彩なイメージが貧相に固定化されてしまいました。

なにが問題なのか、整理してみましょう。

①意識の深層で自由に蠢いていた“神話”性が、表層的な意図を付加された“物語”性に移行させられています。

②個々の視聴者に委ねられていた、キャラクターの豊かな個性が、提供者が強制する、固定的で狭隘な人物像に堕されました

③相関図という、閉じたネットワーク思考そのものが、近代的、意識的、表層的な発想に留まっており、無意識次元での自由で伸びやかな発散思考を妨げています

一言でまとめれば差元化」の魅力を捨てて、手軽な「差異化」に堕ちていきつつある、ということでしょう。


こうした疑問点が視聴者の意識の表層に浮かんでくるにつれて、三太郎CMの魅力は少しずつ薄れ始めています

このブログで疑問点を指摘してから、ほぼ1カ月、三太郎CMへの批判があちこちから湧き上がってきました


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2016年6月15日水曜日

三太郎の優位はこのまま続くのか?②:一寸法師が大きくなった!

大人気の三太郎CMですが、すでに幾つかの疑問点が現れ始めています。

2番めの疑問点は一寸法師が突然大きくなって、視聴者の目にも見えるようになったことです。

同シリーズでは、2015年7月の「かぐや姫の帰省」篇以降、30編近い作品に、極小のキャラクター「一寸法師」が、通常の視聴ではまずは見つからない場所や形で、ひっそりと挿入されてきました。

ところが、2016年6月に始まった「夏のトビラ・一寸法師、登場」では、この一寸法師が突然、大人の体格に変身したのです。

浦島太郎が花咲爺の白い灰を撒き上げると、その中から成長した一寸法師が、いわば「法師」として登場しました。
 
 
これまでの三太郎CMでは、よくよく注意して見ないとまずは見つからないような形で、小さな姿が意外な場所に潜んでいたのです。

このため、見ているのに気づかない、だが何か気にかかる、といった気分を視聴者に与えました。

さらには、気がつけば、アッと嬉しくなる、まだ気づいていない人に教えてやりたい、といった気持ちもまた高めていました。

これこそ、無意識を効果的に刺激する差元化戦略の典型であり、三太郎CMの優位性の一つでした。

けれども、これが見えてしまった。無意識が意識化されてしまった。

今では三太郎を誘って「一緒に山へ行こう」などという展開で、神秘性も象徴性も消え去った、他のキャラクターと全く変わらない姿で動き回っています。

要するに、無意識支援という差元化戦略の、有力な一つを放棄し、代わって六尺法師と三太郎たちとの交遊という、新たな物語創りの方に力点を移しているのです。

これは、差元化から差異化への戦略転換ともいえるでしょう。

こうなると、三太郎CMは有力な魅力の一つを失ったことになります。
もしこれを覆そうとするなら、これからの三太郎CMの中にも、影でしか見えないもの変幻自在のキャラクターなど、新たな無意識刺激手法を導入することが求められるでしょう。
 
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2016年6月9日木曜日

AI(人工知能)がファッション業界を変える?

繊研新聞・繊研教室(2016年6月7日)に寄稿しました!

AI(人工知能)が囲碁・将棋対局、小説創作、自動運転などで予想以上の成果を上げ、その影響がファッション産業にも及び始めている。
AIは今、1950年代の第1次、80年代の第2次に続いて、第3次の発展期にあり、私見によれば、第2次のエキスパートシステムを継承・発展させ認知推論系と、ディープラーニング(深層学習)を中核とする機械自習系の、2つの系列が主導している。・・・以下は http://gsk.o.oo7.jp/insist16.html#AI

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2016年6月3日金曜日

三太郎の優位はこのまま続くか?①:みんなが英雄でいいの?

ミソロジー戦略で白戸家に勝った三太郎ですが、その優位はこのまま続くのでしょうか?

差元化戦略という視点からみると、最近の三太郎CMには、すでに幾つかの疑問が現れています。

最初の疑問点:「みんながみんな英雄」でいいのでしょうか?


同CMシリーズ では2016年1月から「春のトビラ·みんながみんな英雄」篇を公開していました。


タイトルだけから判断すると、登場人物のそれぞれが英雄であり、ユーザーの一人一人もまた英雄だ、という意向が伝わってきます。

だが、スマホのユーザーの1人1人が英雄であっていいのでしょうか?

電車内でメール操作に熱中しすぎて弱者に優先席を譲らなかったり、SNS の使い過ぎイジメやシカトが小・中学生からママ友の間にまで広がるなど、スマホという情報機器は個々人の自意識を過剰に拡大させています。

こうした悪弊が広がる以上、ユーザーをさらにヒーローやヒロインに祭り上げて、無粋な英雄に仕上げるのはいかがなものでしょう。

現に同CMの歌詞では

「特別じゃない 英雄じゃない  みんなの上には空がある」
真逆の言葉から始まっています。

反語だ、というつもりかもしれませんが、この矛盾に気づかない鈍感さに、感覚・感性のうえでかなりの危惧を覚えます。

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2016年5月21日土曜日

白戸家はなぜ三太郎に敗れたのか?③:違和感が排除した!

第3は感覚・感情の視点。私たちは無意識下の感覚次元でも、時代の流れや社会の変化に敏感に反応し、さまざまな感情を生み出しています。

この視点から見ると、白戸家と三太郎のCMの間には、次のような違いがあり、これが違和感となって、両者に差をつけています。

1つはモデルとなる家族像の差

白戸家は伝統的な名門家族をモデルとし、三太郎は何人かのキャラクターの共棲するシェア家族をモデルにしています。

情報機器のユーザーの場合、伝統的な家族を象徴するのは固定電話、純個人向け情報手段の代表はスマホ、ということになりますから、直感的にも三太郎CMがぴったりします。




 2つめは顧客となる家族構造の変化

現在の日本では、人口構造の変化に伴って、三世代家族や核家族などの伝統的な家族は漸減し、代わって単身者やDINKS (子どものいない共働き夫婦)などが漸増しており、シェアハウスやコレクティブハウスのような新型家族も始まっています。

この点でも、伝統的家族をモデルとする白戸家CM よりも、個人ユーザーをモデルにした三太郎CMの方が、より多くの顧客をとらえることができます。

3つめは旧記号を利用する難しさ

白戸家CMでは2015年10月から、往年の名作アニメの主人公が登場する「MOON RIBAR」シリーズを流しました。有名タレントが「セーラームーン」「アトム」「ちびまる子」「矢吹丈」といった人気キャラクターに扮し、それぞれの現在を実写化したもので、三太郎CMの昔噺キャラクターに対抗しようとする意図も感じられました。

過去のストーリー(物語)を現在のストーリーに重ねるというダブル記号化戦略ですが、重ね方に少しでも違和感があると、視聴者に強い拒否感を与えることになります

伝統的・汎用的な昔噺キャラクターと異なって、人為的に作られた物語キャラクターでは、視聴者がさまざまな感情を移入しているケースが多く、ダブル化されたストーリーの中でそれらがうまく活かされていない、かなりの不満や不快感を覚えることになります。

白戸家CMのアニメ復活シリーズでは、この危惧がまさに的中し、多くの視聴者から批判されました。感覚的な不快感がCM戦略を排除したのです。

以上のように、感覚・感情の点において発生した違和感もまた、白戸家が三太郎に敗れた理由の一つといえるでしょう。


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2016年5月16日月曜日

白戸家はなぜ三太郎に敗れたのか?②:無意識を喚起した!

第2は無意識支援の視点。三太郎シリーズはCMの中に視聴者の無意識を刺激する、極めて優れた仕掛入れることで、好感度を大きく上げています。

白戸家シリーズでも、2011年6月に白戸家にそっくりな家族が登場する「偽戸家」が登場し、視聴者の注目を集めたことがありました。お父さん犬の父を囲んでいる祖母、母、兄、妹のそれぞれが、全く別の家族に変わっていたというものです。


従来のキャラクターが突然変わったので、それなりに話題となりましたが、あくまでもストーリーの変型として造られていました。このためか、少し慣れてくると、単なるパロデイにすぎない飽きられてしましました。

これに対し、三太郎シリーズでは、2016年4月1日、桃太郎、金太郎、浦島太郎の三太郎が、全く別の3俳優に変わってしまうという一編を流し、これに気づいた視聴者をアッと驚かせました。エイプリルフール限定で流されたものですが、スタンドイン(撮影前の代理役)の3人がそのまま出演した、ニセモノの「三太郎」です。


このCMは、まったく広報しないで、視聴者自身の感覚と認知に任せるという無意識喚起性と、ストーリーとは無縁の偶然性という、2つの手法によって、単純なストーリー戦略を抜け出しています、

それだけではありません。三太郎シリーズには、より高度な無意識喚起性が仕組まれています。

2015年7月の「かぐや姫の帰省」篇以降、最近までの30編近い作品に、これまたお伽噺の代表的キャラクター「一寸法師」がひっそりと挿入されているのです。通常の視聴ではまずは見つからないような、小さな姿が、まったく意外な場所に潜んでいます。



見ているのに気づかない。何か気にかかる。気づけは嬉しくなる。知ったら知人に教えたくなる・・・などの諸点で、まことに見事な仕組みといえるでしょう。

以上のような無意識支援性によって、三太郎は白戸家を圧倒しています。

まとめてみると、①視聴者自身の感覚と認知を喚起する無意識支援性、②視聴者に次の期待を抱かせる探索誘導性参加性、③発見を広めたいという波及性、④ストーリーとは無縁の偶然性、といった点で、表層的なストーリー戦略を抜け出し、深層的なミソロジー戦略に到達しているといえるでしょう。

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2016年5月10日火曜日

白戸家はなぜ三太郎に敗れたのか?①神話が物語に勝った!

これまで述べてきたことを実証する好例が、スマホのCMにおける「白戸家」と「三太郎」の勝敗です。




このブログでも、半年前にすでに紹介していますが、S社の「白戸家」シリーズは人語を話す「お父さん犬」とその家族のおりなす日々の暮らしという、ユニークな設定が注目されて、CM総合研究所の「銘柄別CM好感度ランキング」でも、デビューした2007年から2014年まで連続8年の間トップを維持してきました。 

しかし、2015年度の同ランキングで、K社の「三太郎」シリーズに首位を奪われ、2016年前半でも倍以上の差をつけられています。

三太郎」シリーズはお伽噺でおなじみの桃太郎、浦島太郎、金太郎の三太郎に、かぐや姫、乙姫、鬼、花咲爺などが絡まって、コミカルな掛け合いを繰り広げるもので、2015年1月のオンエア開始時から圧倒的な支持を集め、その後も観測史上最高の好感度を維持しています。

この要因はどこにあるのでしょうか。すでにさまざまな論評が行われていますが、このブログの趣旨からみると、幾つかの指摘ができます。

第1は象徴力支援の視点。つまり、ミソロジー戦略ストーリー戦略を超えたことです。

白戸家シリーズは、典型的なストーリー戦略であり、人工的な物語を次々と更新することで、その魅力を保ってきました。だが、人工的な差異化戦略では新奇性が命ですから、ストーリーの展開や新しいキャラクターの登場などが絶えず迫られます。そうなると、展開が頻繁になればなるほど、視聴者はさらなる新しさを求めるようになり、少しでも停滞すれば、すぐに飽きられることになります。それがストーリー戦略の宿命です。

これに対し、三太郎シリーズは昔話・お伽噺・神話などを応用したミソロジー戦略ですから、基本的な筋書が民俗的・潜在的な地盤に基づいており、何人かのキャラクターもまたアーキタイプ(ユングの元型)そのものです。それゆえ、新規性よりも既視性、新しさよりも懐かしさ、表層性よりも深層性が訴求対象になっています。こうした差元化戦略の安心感が視聴者の気持を強くとらえている、といえるでしょう。

この違いが、時代の変化、社会構造の変遷、生活者心理の移行などに伴って、白戸家を退かせ、三太郎への支持を高めたものと思われます。

第2、第3の要因については順番に書いて行きます。



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2016年4月27日水曜日

「差異」より「深化」を!

需要側の主体である個々人が、新たな方向へ向かうとすれば、生活資材の供給側である企業は、どのような行動をとればいいのでしょうか。

いうまでもなく、個々人の象徴・感覚領域へ無遠慮に侵入したり、好都合な方向へ誘導するような行動が許されるものではありません。もしも強引にそんなことをすれば、より激しい拒否やもっと厳しい排除に出会うことになるでしょう。

そうした事態を考えると、企業や非営利組織などが、外側から応援できることは、次のような行動に限られてきます。


個々人の感覚回復を支援すること。具体的にいえば、言語以前の体感的、直感的な次元への回帰を支援するため、原始的な生活や動物に囲まれた環境を提供する「原始・動物力支援」、温泉浴、森林浴、海水浴など、生れたままの人間に立ち戻って、伸びやかに自然と戯れられるような環境を創り出す「体感・感覚力支援」などが考えられます。

無意識への回帰を支援すること。実際の方法としては、睡眠、催眠、酩酊などで適切に没我の境地へ導く「没我力支援」、身体や感覚を研ぎ澄ませて、霊感や六感を増加させる「直感力支援」、無意識の次元に立ち戻って、自らの原点を確認し、それを社会に向けて広げさせる「自己対面力支援」などが考えられます。

象徴力の強化を支援すること。例えば、個々人の意識下に潜んでいる元型に出会えるような機会を増やす「象徴・元型支援」、宇宙、大地、山野、大海など、潜在意識の中から「絶対に変わらないもの」を探しだして、体験させる「不変物信仰支援」、普遍かつ壮大なものに触れさせて、私や個を超えた次元を体験させる「集合的無意識支援」などが考えられます。

いずれの行動についても、圧倒的な記号の洪水に対抗していくには、非記号的な力の拡大を支援することが求められます。それは、水平的な「差異」の強調よりも、垂直的な「根源」へ下降していくことを意味しています。記号のネウチが記号相互間の違い、つまり「差異」に基づいている以上、その跳梁を打ち破るには差異」よりも「深化」を重視することが求められるのです。

差元化の基本的な方向とは、私たちの生活の根源を深めることといえるでしょう。


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2016年4月19日火曜日

差異化を超えて差元化へ

過剰な差異化現象、つまりカラーやデザインからネーミングやストーリー、さらにはブランドやファッションなどの紡ぎ出す、さまざまな悪弊から、私たちの初々しい生活世界を守り抜くにはどうすればいいのでしょうか。

まずは現象学の「エポケ(epokhē:判断中止)を応用して、記号界のさまざまな「欲望」をかなぐり捨て、そのうえで生理的な「欲求」や無意識的な「欲動」の次元へ降りていきます。すると、そこに見えてくるのは象徴や神話の世界です。さらにその下には無意識や本能の世界があり、もっと下には感覚や体感の世界が広がっています。

記号化される以前の世界(モノ界)はおおむねこの3層で構成されていますから、そこから生まれてくるモノ=象徴によって、肥大化するコト=記号に対抗していくことができれば、モノとコトのバランスを回復することができるはずです。果たしてそれが可能なのか、一番下の感覚から入って、無意識、象徴の順に考えてみましょう。

感覚の次元
感覚次元では、個々人の身分け能力、つまり五感や六感などの感覚をいっそう鋭敏にすることが求められます。マーケティングやマスメディアの作り出す幻想を最終的に打ち破るには、なんといっても自らの感覚を研ぎ澄ますことが必要です。


最近では不況のせいで、消費者の多くが「みせかけ消費」や「あこがれ消費」を脱して、「身の丈消費」や「実質消費」に移行していますが、その時、モノ選びの基準として頼れるのは、惑わされやすい視覚よりも、触覚や嗅覚など自分自身の感覚です。

こうした感覚を取り戻すには、一旦は理性的、合理的な鎧を脱ぎ捨てて、直感的、感覚的な裸身をさらけ出す。野性的な動物や出産直後の乳児などの次元に立ち戻って、触覚、嗅覚、聴覚など視覚以外の感覚、つまり肌触り、快感、快汗、芳香、悪臭、美声、騒音などに敏感になることが必要です。

②無意識の次元
無意識次元においても、身分けと言分けの接点から生まれてくるカオスや本能の動き、こまめに注意をはらっていく。それらは通常、意識下の暗い深淵に潜んでいますが、時折、夢や幻想などの形をとって噴出し、記号で覆われた欲望の厚い膜を突き破ってきます。

とすれば、無意識や本能が見えやすい環境を、積極的に作り出したらどうでしょうか。眠り、酩酊、陶酔といった状況に自らを追い込んで、その中でたっぷりと夢や幻想を味わい、そこから生来の直感力や超能力を回復させる。それができれば、外部から誘導された欲望の虚構性が自覚され、生身の生活願望が見えてくるはずです。

③象徴の次元
象徴次元では、シンボルや元型の動き注意を払うべきでしょう。先に紹介したユングによると、「象徴(シンボル)という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系である、と定義されています(『人間と象徴』)。私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。

以上にあげた、3つの方法によって、個々人の持つ感覚・無意識・象徴力が回復できれば、私たちは記号の専横を少なくとも抑制することができるはずです。そこで、この3つの方法をまとめて「差元化」とよぶことにしましょう。

現代思想の分野では、観念・意識・記号の世界を生み出す力を言葉の差異に求めて、「差異化」とよんでいます。これとは正反対の感覚・無意識・象徴を強める力ですから、ユングの元型論に因んで、「差元化」と名づけたのです。

差元化は、モノ界の比重を再確認することで、肥大するコト界に拮抗させ、コトとモノのバランスを回復することを意味しています。


こうした方向を基盤にして、本来の意味での「モノづくり」力が回復できれば、マーケティングが衰弱させた「コトづくり」力やアイデンティティーを、もう一度甦らせていくことも決して不可能ではありません。

2016年4月9日土曜日

「象徴」を応用する!

「象徴」という言葉には、多様な意味が含まれています。

英語のシンボルsymbolや仏語のsymboleなどの語源は、ギリシア語の動詞 symballein(一緒にする)の名詞形 シュンボロンsymbolonに由来しています。

Symbolonとは、何かのものを2つに割って2人の人間が分有し、それぞれをつきあわせて、相互に身元を確認しあうもの、つまり「割符」のことです(世界大百科事典)。

これが諸科学に応用されて、さまざまな形で使われるようになりました。主な用法は次の3つです。

① 直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現するもの・・・哲学・心理学など。

② 記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないもの・・・言語学・記号学など。 

③直接的に表しにくい観念や内容を、想像力を媒介にして暗示的に表現するもの・・・芸術・美学など。

このうち、生活学やマーケティングで使用するには、すでに「
サインとシンボル・・・どこが違うのか?」で述べたように、心理学・分析心理学の用法に従うのがベターだと思います。

先に紹介したC.G.ユングによると、「象徴(シンボル)」という言葉は、既成の言語体系が形成される以前の未言語段階、あるいは前言語段階の意味体系だ、と定義されています(『人間と象徴』)。


この意味での「象徴」は、私たちは、感覚や無意識でとらえたものを言葉で表す前に、より始原的なイメージによって表現している、ということです。

この種のシンボルは、さまざまな民族の神話や昔話などの間で極めて類似しています。例えば、大地母、童子、老賢者、道化、仮面、影などのキャラクターは、母、子ども、老人、ピエロ、悪者などを示す共通イメージとして、人種や民族を超え、人類一般に広く共通しています。

ユングはこれらを「元型(archetype:アーキタイプ)と名づけました。そして、元型が民族を超えているのは、その一つひとつが人間の基本的な存在形態を象徴しているからだ、と述べています。


元型とは、人類の中に潜む集合的無意識がさまざまな願望を表現する時の「原始心像」であり、その心像の<元>となる型が予め無意識の中に存在する、と考えているのです(『元型論』)。

集合的無意識というのは、一人ひとりの個人を超えて、日本人とか中国人とかいった民族や集団の心の底に潜んでいる願望のことです。通常は意識されませんが、夢や神話などの形をとって時々私たちの前に現れ、穏やかな自然や懐かしい母胎を思い出させ、自由や安らぎを回復させてくれます。

とすれば、記号の氾濫を打ち破るには、この元型を拡大させればいい。始原的なキャラクターに触れ合ったり、それらを幾つか組み合わせた神話やおとぎ話を振り返ることができれば、私たちの心の深層にある沃野に立ち戻って、個人を超えた集合的無意識を再確認することができます。

そして、その延長線上には、「象徴交換」という互酬的な社会制度も見えてきます。ボードリヤールがはるかに期待した、ポリネシア原住民の「クラ」やアメリカインデアンの「ポトラッチ」という交換制度なのです。

以上のように、「象徴」という言葉を心理学的に使うと、サインや記号の乱用による「差異化」の弊害を、積極的に救済する方向が見えてきます。

2016年3月28日月曜日

「象徴」とは何なのか?

J.ボードリヤールが期待した「象徴交換」の「象徴(symbol)」とは、どのようなものなのでしょう。

彼はその著『象徴交換と死』(L'Échange symbolique et la mort、1976)の中で、私たちの生活世界を「象徴界現実界想像界」を分けたうえで、それぞれの関係について述べています。要旨は以下のようなものです。

●象徴界とは、概念でも、階級でも、カテゴリーでも、構造でもない。それは、交換という行為によって、現実界を終わらせ、現実界を解消し、同時に現実界と想像界との対立をも解消する、ひとつの社会関係である。

●象徴界は、分離のコードと分離された対象という対立に終わりを告げるものだ。それは、魂と身体人間と自然現実と非現実誕生と死という対立項を終焉させるユートピアである。象徴界の働きによって、それぞれの事象を対立させている現実原則の意味は失われていく。

●我々とは現実原則の対立項によって、上記のように定義された生者であるが、それゆえに、死とは我々の想像界の事象ということになる。同じように、現実界のさまざまな区別を基礎づけている、あらゆる分離の原型は、生と死との根源的分離のなかにある。

●いたるところで、象徴界は現実界と想像界のそれぞれの魅力を終わらせ、精神分析が描き直したような覚の閉鎖性もまた終わらせる。しかし、精神分析はこの閉鎖性のなかに閉じこもって、多数の分離(一次過程/二次過程、無意識/意識など)により、無意識の心的現実原則(精神分析の現実原則としての無意識)を提起してしまった。その意味では、象徴界はまさに精神分析にも引導を渡している。


以上のように、ボードリヤールは「象徴界」を「現実界(例:生きているという現実)」と「想像界(例:死んでいるという想像)」の外側にありながらも、交換という行為によって両界を交流させる世界、と位置づけているようです。

このブログで述べてきた
生活世界の構造に当てはめてみると、現実界とは、人間という〈種〉に備わっている〈感覚〉によって、周りの環境を「身分け」し、把握できる範囲での〈物界〉=〈モノ界〉であり、また想像界とは、人間の〈シンボル化能力〉、つまり〈言語能力〉によって、〈モノ界〉を「言分け」し、言語化した世界=〈コト界〉ということになります。

とすれば、象徴界とはモノ界とコト界を交差させる世界、あるいは、モノ界からコト界を創り上げる、人間の能力が統合的に作りだしたシンボル世界、ということになります。

このように考えると、精神分析ヘの批判はやや的外のような気もします。なぜなら、精神分析の扱っている対象とは、シンボル化能力の中の下層段階と上層段階の境界そのもであるからです。象徴交換とは両段階の間で行われる行為であり、象徴界とはモノ界とコト界の間にあって両界を創り上げている世界そのものなのです。

とすれば、「象徴」という言葉は、もっと柔軟に使うべではないでしょうか。