2016年3月18日金曜日

象徴交換へ期待する!

J.ボードリヤールが期待する「象徴化」とは、いかなるものでしょうか。彼はその著作の中で、2人の文化人類学者の言説を引用しつつ、次のように説明しています。

まず『記号の経済学批判』(原題:Pour une critique de l'économie du signe,1972)の中では、B.マリノフスキーの説を引用して、以下のように述べます。

●トロブリアント島の人々の、財の消費という制度では、経済的機能と記号的機能との区別が徹底されている。物が2種類に分けられたうえ、それを基準にしてクラギムワリという2つの平行するシステムが結合されている。

クラというのは、腕輪、首飾り、装身具の連鎖状の贈与と流通に基づく象徴交換システムであり、これを中心に価値と身分の社会システムが組織されている。他方、ギムワリは、生活必需品の交易である。このような隔離は、われわれの社会では消え去ってしまった(もっとも全面的にではなく、嫁入りの持参金、プレゼントなどとして残っている)。

●しかし、購買、市場、私的所有といった上部構造の背後には、つねに社会的給付のメカニズムが働いているから、われわれの選択、蓄積、操作、財の消費の中に、それを読みとることが必要だ。それは、差別と威信のメカニズムであって、社会の価値体系と階層秩序を統合する土台となっている。

●クラとポトラッチ(注:太平洋岸北西部先住民族の蕩尽的饗宴)
は消滅したが、それらの原理は消滅していない。われわれは、この原理を物の社会学的理論の土台にすえたいと思う。この原理は、物が多様化し、分化するにつれて、それだけ一層真実味をおびてくる。

こうした視点の背景となった未開社会の構造を、『消費社会の神話と構造』(原題:La Société de consummation,1970)の中では、M. サーリンズの業績を紹介しつつ、次のように書いています。

●狩猟=採集生活者たち(オーストラリアやカラハリ砂漠に住む未開の遊牧民)は絶対的「貧しさ」にもかかわらず真の豊かさを知っていた。未開人たちは何も所有していない。彼らは自分の持ちものにこだわることもなく、それらを次々に投げ棄てて、もっとよいところへ移動していく。「生産装置」も「労働」も存在しないので、暇をみつけて狩や採集をし、手に入れたものすべてを彼らの間で分かちあう。何の経済的計算もせず貯蔵もせず、すべてを一度に消費してしまうから、彼らは大変な浪費家である。

狩猟=採集生活者はブルジョアジーの発明したホモ・エコノミクスとはまったく無縁であり、経済学の基本概念など何一つ知らずに、人間のエネルギーと自然の資源と現実の経済的可能性の手前に常にとどまってさえいる。睡眠を十分にとり、自然の資源がもたらす富を信じて暮している(これが未開人システムの特徴である)。

●ところが、われわれのシステムの方は、不十分な人間的手段を前にした絶望や、市場経済と普遍化された競争の深刻な結果である根源的で破局的な苦悩によって(それも技術の進歩とともにますます強く)特徴づけられている。

●だが、サーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段との単純な関係でもない。それはなによりも、人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮すことを可能にしているものは、結局、
社会関係の透明さと相互扶助なのである

●贈与と象徴的交換の経済においては、ほんのわずかの、常に有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人びとから他の人びとへと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人びとの間の具体的交換の中に生ずる。したがって、富は無限に存在しているのだ。限られた数の個人の間でも、交換の度ごとに価値が付加されてゆくうえ、交換のサイクルには限りがないのだから。




こうしてみると、ボードリヤールは、文化人類学者2人の指摘した「象徴交換」という未開制度の中に、「記号=差異化」制度を超える、より普遍的な交換・消費制度を展望していたのではないでしょうか。

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