2017年6月29日木曜日

メタ・メッセージが「真実」を保証する!

現実と仮想、真実と虚構・・・どちらもまた、私たち人間の「言分け」力が作り出したものです。

この「真実」・・・、私たちが言葉で作り出した「真実」とは、一体いかなるものなのでしょうか。

すでに「
差真化とは何か?」(2015年11月5日)で述べていますが、私たちが「言分け」能力によって作り出した「モノコト界」の中では、真実を表す言葉と虚構を表す言葉が複雑に入り組んで使われています。

私たちが毎日暮らしている生活空間とは、真と偽の入り混じった生活空間であるからです。

だが、このままでは不安になってきますから、私たちは予め、言葉が真実を保証する場と、言葉が虚構であることを示す場を用意して、それぞれの中で言葉を使い分けています。

この装置がいわゆる「
メタ・メッセージ」ですが、それは一つ一つの言葉がさまざまなモノやイメージを示す「基本的なメッセージ」の次元を超えて、幾つかの言葉がまとまって一定の約束事を示す「超越的なメッセージ」の次元を示しています。

前者の、言葉の示すことを全く疑わないで、すべてを真実とみなす場が「真実界」であり、その中で私たちは儀礼、緊張、勤勉、学習、訓練、節約、貯蓄などを行なっています。つまり、「マコト」「ナライゴト」「サダメゴト」などです。

他方、後者の、言葉の示すことをすべて虚構とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場が「虚構界」ですが、ここでは遊戯、弛緩、怠惰、放蕩、遊興、浪費、蕩尽などを行なっています。いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」などです。

とすれば、真実界の中で使われている言葉は、すべて「真実」であるという約束のうえでで、モノゴトを表現しています。

逆にいえば、真実界で使われる以上、一つの言葉は必ず真実を示さなければならない、というきまりになっている、ともいえるでしょう。

さらにいえば、言葉の意味するモノを疑っていては、「言分け」力の存在すら無くなる。それは人間そのもの存在すら否定することになりかねないのです。

それゆえ、私たちは、儀式や儀礼の場で使われている言葉を、些か胡散臭さを感じたとしても、全く疑いをはさむことなく「真実」として理解しているのです。

その延長線上で「学習・訓練」や「節約・貯蓄」といった生活空間においても、言葉の示した目標をできるだけ「真実」として受け入れ、それを実現すべく努力するのです。

このように考ええると、言葉の示す「真実」とは、「メタ・メッセージ」という約束事に強く依存しているものだ、ともいえるでしょう。 

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