2017年7月6日木曜日

メタ・メッセージで「虚構」を遊ぶ!

「まこと」や「真実」の対極にある「うそ」や「虚構」は、どんな仕組みから生まれてくるのでしょうか。

言葉という装置は、「真実」を保証するとともに、「虚構」もまた作り出しています。

言葉の作り出すメタ・メッセージ空間には、すべてを「真実」とみなす「真実界」と、すべてを「虚構」とする「虚構界」が、「日常界」を挟んで向かい合っています。

このうち、虚構界とは「
差戯化とは何か?」(2015年11月29日)の中で述べたように、言葉の示すことをすべて嘘とみなしたうえで、その嘘を楽しむ場であり、いわゆる「ザレゴト」「アソビゴト」「カケゴト」「ソラゴト」「タワゴト」などの言葉が浮遊する空間です。

虚構界の中では、私たちは言葉の示す意味や目標を意識的に緩めたうえで、自らの行動をあえて弛緩させ、遊びや解放を味わっていますが、その中身を整理してみると、次の2つに大別できます

➀言葉の持つ規範性を敢えて無視し、怠惰、虚無、浪費、蕩尽などへまっしぐらに転落していこうとする消極的な弛緩行動であり、個人次元でいえば目標や規律を外した怠惰や惰性、経済次元でいえば節約や貯蓄を無視した浪費や蕩尽などが該当します。

勤務中のタバコやコーヒーは、日常界では怠惰や惰性とみなされやすいのですが、虚構界であれば息抜きやリフレッシュとして評価されます。

仕事納めの大宴会は、日常界では浪費や無駄使とみなされますが、虚構界であれば 大番振舞やポトラッチ(蕩尽儀礼)として評価されます。

②言葉の虚構性をむしろ認めて、遊戯、ゲーム、模擬、混乱などを思い切り楽しもうとする積極的な遊戯行動であり、個人次元でいえば息抜きのための遊戯や遊興、社会次元でいえば大衆的なスポーツやエンターテインメントなどが該当します。

●男同士が本気で殴りあえば、日常界では「大喧嘩」と見なされて可罰対象になりますが、虚構界であれば「ボクシング」というスポーツ行為として、何のお咎めがないばかりか、恰好な見物対象になります。

●ゴジラがビルを破壊すれば、日常界では「大災害」と見なされますが、虚構界であれば「映画」の中のこととして、娯楽や鑑賞の対象になります。


以上のように、虚構界では虚構行動そのものが、真実とは異なる意味で、有意義な生活行動として認められています。

「うそ」という行動は、「まこと」と同等に、私たち人間の生活の中で重要な位置を占めているのです

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